歴史するうさぎ

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2005年 03月 09日

現代日本のカトリシズム?

困った依頼を受けてしまった。
現代日本のカトリシズムについて、1時間半の講義を担当して欲しいという。
キリシタン時代の話ならともかく現代とは。さてどうしよう。

基本は遠藤周作、曽野綾子、永井隆あたりか。
人口の0.4%、ミッションとして限りなく失敗に終わった日本の宣教。
そこでカトリックとして生きること。
それは私自身の生活観、日本人観に他ならない。

学部生が相手となると面白可笑しい話もありなのだろうか。
たとえば。
他国では決して認められることのない、非クリスチャン同士の結婚式が教会で行われること。教会がこれを、キリスト教を知ってもらう機会としてとらえていること。これは欧米のクリスチャン、特にカトリックには信じられない話に違いない。ただ、そんな底の浅い話ばかりしても、とも思う。教皇書簡『アジアの宣教』あたりには、第二バチカン公会議の各地の習慣にかなった方法での宣教ということも盛り込まれているだろう。

アメリカ人学部生が、日本のクリスチャンについて知りたいことは何だろう?

極端なマイノリティとしてのクリスチャンの存在。これは欧米のクリスチャンとは全く違うところだろう。遠藤周作氏の苦悩はどうだ。13歳で母親から言われるままに洗礼を受け、自分が正しいクリスチャンとしての自覚が持てないことに苦しみ続けた。その一方で、自分がクリスチャン以外であり得ない事も十二分以上に自覚していた。

遠藤氏の『沈黙』で語られる神。
遠藤氏本人がカトリック信徒でありながら、彼の描いた神はカトリック神学の神からは逸脱している。遠藤氏は全て知っていながら敢えてこれを書いた。しかも主人公はポルトガルから単身、禁教令の敷かれた日本に乗り込んでくる宣教師だ。彼がヒエラルキーを離れながら、「キリスト者」であり続けること、人間であり続けること。ヒエラルキーを離れてなお「司祭」であり続けること。主人公のロドリゴが言い放った通り、ヒエラルキーの中にいること自体が守られた社会にいる人々に理解を求めることは難しいに違いない。

踏み絵に足をかけようとするロドリゴにキリストが語りかける。
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。(略)私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」(p.240)

ロドリゴは、殉教する日本の百姓たちを神が救わないことに苛立つ。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

この声が聞こえるのは、共産圏で息を潜めていたキリスト教徒たちなのか。フランス革命の中でギロチンにかけられるのを待った聖職者たちなのか。神が共に苦しんでいた、という発想が、欧米でマジョリティとして何の危険にもさらされず、迫害も差別も受けることのない人々には受け入れられるのか。

中東に滞在する欧米のクリスチャンならわかるのか。いや、彼らの多くは(もちろん例外はあるだろう)なぜ自分たちがキリスト教徒ゆえに攻撃を受けるのか、その意味すらわかっていないような気もする。少なくとも最初からマイノリティとしてのキリスト教徒とは発想が異なるに違いない。中東の国々で砂漠の民族として生まれながらクリスチャンであるという人々との、同じ土地の上でのこの乖離。キリストが生まれたのはパレスチナだったという皮肉。

日本人のカトリック信者が、遠藤氏が描いた神ならば信じることができると受け入れて来たという事実。それを日本に派遣された宣教師たちも良しとしてきたという意味における、バチカンの新たなる方針としてのアジア・ミッション。

そして、意外な程に日本の習慣を受け入れている、日本のカトリック教会というアプローチはありか。

聖母崇拝の深さは、儒教の男系社会化のもう一つの顔であるとも言われている。それはイタリアやイタリア系アメリカ人社会にも同じ現象が社会史・社会学的に証明されている。これに学術的に説明をつけることが可能かどうか。たとえば神道における女神信仰は、いわゆるケルトやローマの土着信仰がカトリシズムを受け入れた土壌と並列に語られうるのか。

突然そういう話がふっても3週間でできることは余りにも少な過ぎる。
もう少し頭を整理することにしよう。

とりあえず持っている和書から処理。
英語版は後ほど再整理。
To do listとして--

『教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告 アジアにおける教会:Ecclesia in Asia』(2000年 カトリック中央協議会)
太田淑子編『日本、キリスト教との邂逅:二つの時代に見る受容と葛藤』(2004年 お離縁す宗教研究所)
門脇佳吉『瞑想のすすめ:東洋と西洋の総合』(1989年 創元社)
ケビン・ハンロン著・斎田靖子訳『外国人司祭が観た日本のカトリック信徒』(2001年エンデルレ書店)
山折哲雄『日本人の宗教感覚:歴史と現代に探る日本宗教の多元的な特質』(1997年 NHKライブラリー)
遠藤周作『イエスの生涯』(1982年 新潮社)
遠藤周作『沈黙』(1981年 新潮社)
遠藤周作『深い河』(1996年 講談社)
永井隆『長崎の鐘』(1995年 サンパウロ)
永井隆『この子を残して』(1995年 サンパウロ)

とても足りるとは思えません…。
てかこの授業、歴史ですらないし(笑)。
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# by lapin_histoire | 2005-03-09 09:52 | 歴史のほとりに佇む
2005年 03月 02日

はじめまして

このページの「はじめまして」を書くのはなんと難しいのだろうと一瞬思ったのだが、余り難しく書くのはやはりやめようと決めた。ここで構えてしまったら、この先書いていく本へのリアクションが自由気ままにならなくなってしまうような気がするからだ。自分の歴史や歴史学に対する思いは、この先徐々に、Monologueにあたる「歴史のほとりに佇む」の項目に書いていくことができれば、それで良いようにも思う。

まずは始めることだ。

他に幾つかのWeblogを目的別に始めてみて、非常に良い効果が自分に戻ってきているように思う。

何よりも書くこと。書き残すこと。

自分の思いや考えを綴り、残すのに、これ程便利な場所はないと気づいた。自分のHDはいつかクラッシュするかも知れない。大学のPublic Foldersとして自分の書類を残すこともできるが、重かったり、言語の問題があったりで、ままならない部分も未だ多い。

「脊髄反射的に」記事を書き、リアクションのコメントを残すというのは、他のWeblogでお付き合いのある方々が使う言葉なのだが、そこから学んだWeblogの特性でもある。

いずれ、出版などにあたっては、深く文章を練った書評を書くことも必要なのだろうが、ここではそんなことを気にせずにやろうと思う。いつか深く考えるためにも、あの時、あんな反応をした、と、自分のために記録を残すことは悪くないと思う。

だからここは、そんな自分の読書録とか備忘録のようなものになるのだと思う。脊髄反射で書くのだから、書き直したいと思う時も必ずや来ると思う。そんな時には、誰への責任も感じずに書き直させて頂きたい。まずは、自分のために書き残したいページだから。

一方、書き「続ける」ことへの意味を考えるなら。

同じ本を読んだ方からも、まだ読んでいない方からも、もし何らか私が書いたことに興味をもたれたら、コメントを頂ければきっと嬉しいと思う。

本というのは、誰もが同じように読むものでも、ましてや読むべきものでも、決してないからだ。私はこのように読んだ。あなたはどの部分に惹かれましたか。私が書いたもので足りなかった情報はなんですか。私が書いたことからどのように興味をもたれましたか。

そんなことに答えて頂けるコメントがあれば、それは嬉しく新鮮な驚きになり、自分の読む力と書く力をもっともっと高め、深めてくれるのではないか--そんなことも期待する。何より、誰かと読書についての共通体験を(たとえまだ同じ本を読んでいらっしゃらなかったとしても)分かち合うということは、ある意味、その方と人生のある部分を分かち合うような、何にも代え難いかけがえのない経験になるようにも思うのだ。

今、このページを開いてすぐの段階で、どなたかにこのページについてお知らせしようという思いはまだない。いつか少しこのページに書き慣れ、ページの中に情報が若干でも増え、もっとコミュニケーションをとりたいと思う環境が整ったら、そんな日が来るのかも知れない。

今はともかく、始めることが何より大切なのだと思う。

そんなわけで。
あなたの存在を意識することも希薄なまま、このページを始動します。
いつかこの挨拶を読んでくださった方へ。
私ははじめ、こんなところにいました。
ここからどこに向かっていくかも、見守って頂くようになれば、こんなに嬉しいことはないでしょう。

訪ねてくださったこと、本当に感謝しています。
ありがとう。
そして、どうぞよろしくお願いします。
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# by lapin_histoire | 2005-03-02 07:22 | はじめまして