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2005年 03月 21日

Johannes Hirschmeier, S.V.D., "Shibusawa Eiichi: Industrial Pioneer"

Johannes Hirschmeier, S.V.D.
"Shibusawa Eiichi: Industrial Pioneer"
William W. Lockweed. Ed.
The State and Economic Enterprise in Japan:
Essays in the Political Economy of Growth

Princeton, NJ: Princeton University Press, 1965

世界にあまたある渋沢栄一論の中で、どうして私の指導教授がこの論文を選んで読ませたのかは、その後長い間私の疑問だった。著者は南山大学学長だったヒルシュマイヤー博士である。日本人が見た日本の経済人論という視点を、まず徹底的に排除させたかったのだろうか。それでありながら、日本での教育に長い間携わられた著者の視点が、世界の中で日本が発展の一歩を踏み出す様子を理解するのに不可欠という発想があったのだろうか。

渋沢栄一は、徳川昭武一行と共にパリの万博の視察に同行し、岩倉ミッションとは別ルートで欧米の先進文明に触れている。そして、大蔵省に招かれ、退官後は第一国立銀行を設立したという功績で語られることがほとんどであろう。

ヒルシュマイヤー氏も、無論渋沢のこの軌跡と功績を追いながら、しかし執拗に描いたのは、そのキャリアの「偶発性」と、判断の優柔不断さ、あるいは柔軟さのように思えてならない。

(つづく--4月に入ってからゆっくり更新の予定です)
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by lapin_histoire | 2005-03-21 06:52 | 19世紀日本を跳ぶ
2005年 03月 19日

Max Weber, The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism

Max Weber, The Protestant Ethic and the Spirit of Capitalism
(New York: Harper Collins Academic, 1930).
マックス・ウェーバー著 梶山力・大塚久雄訳
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(上・下)』
(1962年 講談社)

私が別に運営しているブログ上でアップした記事(2005年3月17日)に対してコメントを下さった方と、以下のようなやり取りが交わされた。とても素敵なやり取りだったと信じている。これをこのまま中途半端な形で小さなコメント欄でお返事するのはとても気が引けるし、かと言って、そのページで余り踏み込んだ深い話をしてしまうのも、他に訪ねてくださる方たちのことを思うとどんなものかとも考え込んでしまう。たまたま春休みに思い立って開いたばかりのこのブログの最初の一冊としてウェーバーというのは相応しいように思うし、とてもchallengingだ。歴史学専攻の人ばかりでなく、普通にこの本を手にとられる方たちが興味を持てるような、あるいはわかりづらい部分を補えるようなものが書ければと思う。

もう一つのブログで交わされたのは以下のようなやりとりである。私のポルトガル旅行と、自分が高校時代に大航海時代のヨーロッパから欧米発展史について思っていたところを書いた記事に対するコメントを頂いたところから始まった。

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Commented by b-xxxxball at 2005-03-18 05:22 x
大航海時代、先頭をきっていたポルトガルが現在ヨーロッパで遅れをとってしまったのはなんでだろう?
もっと勉強しとけばよかったなぁ(笑)

Commented by rapxxxe at 2005-03-18 07:58 x
びーはいさま☆空気読んでないまじレスだったらごめんなさいね。その質問の定番の答えはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をまず読む、なんです。マルキシズムのアンチ・テーゼと言われた本です。もしまだで、機会があったら是非。高校くらいで習った勉強って、今見直すと面白いものがたくさんかも知れないですよ^^。もう試験関係ないし(笑)。

Commented by b-xxxxball at 2005-03-19 02:14 x
高校くらいで習いませんよー!少し調べました。
えーと。マルクス的な「世の中金だぁ!」ではなく「働くいて得るお金は美しい!」的な思想が資本主義を発展させた・・・そんなかんじ?
あ・・頭いたいです(笑)

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えー。私も頭いたいです(笑)。
でも少し頑張ってみましょう。

まずマルキシズムについておさらいするところから始めましょう。
簡単にしか言いません。ここではマルクスの哲学的背景とか『資本論』については省略します。彼の「唯物史観」にだけ焦点を絞ります。「唯物史観」というのは、人間の歴史における発展や変化を語るとき、物質的な変化の説明にだけ頼る方法論を言います。具体的には経済活動や科学技術なのですが、マルクスは経済活動に焦点をあてて、あらゆる人間の発展をすべて経済活動で説明するという立場をとっていました。これに対して、政治や文化、哲学、宗教なども人間の発展には大きな役割を果たしたではないか、という議論が当然あります。マルクス以後の時代、この立場をとる人たちがアンチ・マルキシストなどと呼ばれましたが、マルクス自身はこういう経済とか科学技術「以外」の考えに則った議論のことを「観念論」なんて呼んでいました。失礼な話です(笑)。という訳で、b-xxxxballさんがコメントでおっしゃった通り、カール・マルクスの思想の基本は「経済活動」です。

一方、マックス・ウェーバーは、「経済活動の後ろにあるのだって人間の思想や倫理観である。それには宗教文化も大きく影響を与えていたはずだ」という立場をとっている訳で、時代的に見て、典型的なMarxism vs. Anti-Marxismの構図で議論を行ったということができます。

Karl Heinrich Marxが生きたのは1818年から1883年です。
Max (Maximillian) Weberは1864年生まれで、没したのが1920年です。
マルクスが亡くなった時、ウェーバーはまだ19歳なんですね。
二人がお互いに直接、議論を交わした事はないでしょうけれど、ウェーバーが研究を進めている時代というのは、マルクス理論への理解が進むと同時に、親マルクスと反マルクスの乖離もまた進んだ時代と考えて良いでしょう。ご紹介した『プロテスタンティズム…』が出版されたのが1904年です。日本史で言えば、日露戦争が始まった年。ロシアの第一革命が起きるのが1905年です。

さて、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ですが、ものすごく簡単な言葉でこのタイトルを説明すると、「プロテスタント(キリスト教の中で新教と言われる方の教派)が倫理的だと考えている思想の副産物が、非常に資本主義を進めるのに役立った」ということを言っています。結論を先に言ってしまうのですが、最初にコメントで質問のあったポルトガルというのは、カトリック(キリスト教の中で旧教と言われる方の教派)国なんですね。20世紀半ばまで、職業倫理についてカトリックとプロテスタントは非常に違う考え方を持っていました。この違いが、産業的に発展した国(経済的に成功した国)と、そうでない国を分けたのではないか、というのが、19世紀末から20世紀初頭に活躍したウェーバーの考えだったのです。

ここで、b-xxxxballさんが書いてくださった「働いて得るお金は美しい!」の意味をちょっと考えてみることにしましょう。これはものすごく的を射たコメントなんですね。私は本のご紹介をした立場なので、もう少しだけ言葉を足してみたいと思います。

働いて得るお金は尊いのですが、その職業には貴賎がある。たとえば、人を助ける仕事で得るお金と、売春で得るお金のどちらも美しいのか、というような議論があると考えやすいでしょうか。ここでは、どんな仕事でも、働きさえすればお金は美しいという訳ではないという発想があるのです。ただし、どんな職業が尊いのか、という発想が、今の日本で考えるものと、当時の欧米で考えるものでは、基準がだいぶ違っています。

20世紀の前半あたりまでの欧米社会を見れば、人々の倫理観の底には宗教感覚というのが根強かったと考えて差し支えないかと思います。日本でも儒教思想は明治生まれの方たちの中にはしっかり息づいていましたし、恐らく戦前の世代まではそれを直線的に受け継いでいたのではないかと思います。ですから、当時の欧米での大多数の人々の倫理観を規定していたものは、キリスト教だったと言って良いでしょう。キリスト教は大きく分けて、カトリックとプロテスタントに分かれるのですが、歴史的に古く組織がそのまま残っているカトリックから説明します。

カトリック教会というのは今でもそうなんですが、バチカンの教皇を頂点にヒエラルキーががっちりと出来上がっています。神に近い職業としての聖職者がいて(彼らはもちろんその職に就くための努力もしてきている訳ですが)、その下に一般信徒がいるというピラミッド構造で、世界中のカトリック信者が繋がっています。現代社会ではもちろん、我々が常識と考えていることのほとんどを認めているのですが、20世紀前半までは非常に封建的で保守的な組織で、また何より宗教団体ですから、まず神様ありき、な訳です。つまり、この世においても一番大事な仕事は神様に近い、聖職者ということになります。そして、一般信徒の救いは教会での活動を通じてということになります。また、一般の職業の中でも、いわゆる「額に汗して働く仕事」、つまり農業とか漁業などが職業として立派なものであり、今でいうサービス産業などは必要悪に近い職業という位置づけだったのです。(間接的な話になるのですが、ユダヤ系の方たちというのはこのサービス産業とか金融業とか、いわゆる第三次産業を得意とする方たちが多く、キリスト教国の人たちと昔から仲良くなれなかった事情がこういう部分にもあります。)

この職業倫理観というのは、キリスト教社会一般に近代まで信じられていたもので、カトリックに限ったものではありませんでした。但し、プロテスタントは宗教改革でこのカトリックのピラミッド型のヒエラルキーから外れたために、組織なくしても神様と繋がれるよう、個人と神のかかわりを重視しました。プロテスタントにも牧師という形で宗教指導者がいるのですが、それが一番大切な仕事であるという意味合いは薄まってくる訳です。個々人のどんな仕事でも、真摯に果たすことが神との約束を果たす事になる、という倫理観がプロテスタントのクリスチャンの中には芽生えていたとウェーバーは考えていたようです。この発想は、それまで「必要悪」と言われた第三次産業を選ばざるを得なかった人たちには、朗報であり救いになったはずです。堂々とその仕事を果たせるということで、就業人口も増えたに違いありません。この第三次産業の発達と、資本主義を構成する産業化や近代化はほぼ同じ意味だと思って頂いて構わないと思います。つまり、プロテスタントの国々では、それを進める精神的な準備が整ったということです。

プロテスタントの中でも何通りも教派があるのですが、スイスのカルヴァンが指導したカルヴィニズムに属するグループが、最も「個人」と「神」の関係を重視したというのがウェーバーの理論の拠り所です。カルヴィニズムの代表的なグループに、イギリスからその植民地のアメリカに渡った(逃げた)ピューリタンがあります。

つまりウェーバーは、アメリカのピューリタンを祖とするカルヴィニズムのグループ(現在の長老派や会衆派など)、そしてヨーロッパに残ったプロテスタント諸国が、その個人と神の繋がりによる職業倫理によって、産業化や近代化を進め、結果として国の経済活動を後押ししたと言っています。アメリカやオランダ、ドイツなどが好例で、これにイギリスが続く感じを想像してみてください。この逆説にあたるのがヨーロッパのカトリック諸国で、宗教組織のヒエラルキーや、第一次産業を優先する職業倫理観が、どうしても近代化になじめず、とりわけ19世紀後半から20世紀半ばという世界の近代化や産業化にとって最も大事な時期に出遅れる原因となったということになります。

1960年代にカトリック教会は大改革を行って、今では近代化や産業化についてこのような時代錯誤なことは言っていません。(ただ、現代の新しい倫理的な問題として、避妊や堕胎、同性婚についてはまだかなり保守的な見解を公式には発表しているのですが。これはまた現代の別の問題ということになりますが、ウェーバーのこの論文のように、将来、再び何かに取り残される原因になる可能性はもちろん否定できません。)

それでもこの近代化にとって最も重要な時期に出遅れたカトリック諸国の様子というのは、21世紀になった今日見ても、ウェーバーのこの理論からそれほど大きく外れていない状態で、ただただ驚くばかりです。カトリック国というのは、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランド、ポーランドなどを想像してみて頂くとわかりやすいでしょう。どの国も最初のイメージとして広がるのは、工業都市ではなく田園風景なのではないかと思います。ちなみに私の友人で東京都職員という人がいるのですが、彼曰く、東京都の一年間の予算というのは、イタリア一国の国家予算を上回っているのだそうです。

そして、ウェーバーはこの論文の後、自分の理論が世界の他地域の宗教でも通用するかを試すために、東洋宗教、道教や儒教についても、同じような論文を書いています。

というわけで。
現在欧米で経済的に遅れをとっている国々、進んでいる国々について、欧米の学生はまずこんな本から読まされてしまう、という留学話でした。もしわかりづらかったら、またコメントください。私もだいぶ忘れてしまっているので、また折を見ながら読み直してみたいと思います。

でも何よりも。
b-xxxxballさんには本当に素敵な質問を頂きました。自分の頭を整理しなおす良い機会になりました。そして、私の文章は自分では非常に悪文だと思うのですが、ここまで読んでくださったとしたら、それに何よりも感謝を。本当に本当にありがとう!
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by lapin_histoire | 2005-03-19 12:22 | 歴史書を跳ぶ
2005年 03月 09日

現代日本のカトリシズム?

困った依頼を受けてしまった。
現代日本のカトリシズムについて、1時間半の講義を担当して欲しいという。
キリシタン時代の話ならともかく現代とは。さてどうしよう。

基本は遠藤周作、曽野綾子、永井隆あたりか。
人口の0.4%、ミッションとして限りなく失敗に終わった日本の宣教。
そこでカトリックとして生きること。
それは私自身の生活観、日本人観に他ならない。

学部生が相手となると面白可笑しい話もありなのだろうか。
たとえば。
他国では決して認められることのない、非クリスチャン同士の結婚式が教会で行われること。教会がこれを、キリスト教を知ってもらう機会としてとらえていること。これは欧米のクリスチャン、特にカトリックには信じられない話に違いない。ただ、そんな底の浅い話ばかりしても、とも思う。教皇書簡『アジアの宣教』あたりには、第二バチカン公会議の各地の習慣にかなった方法での宣教ということも盛り込まれているだろう。

アメリカ人学部生が、日本のクリスチャンについて知りたいことは何だろう?

極端なマイノリティとしてのクリスチャンの存在。これは欧米のクリスチャンとは全く違うところだろう。遠藤周作氏の苦悩はどうだ。13歳で母親から言われるままに洗礼を受け、自分が正しいクリスチャンとしての自覚が持てないことに苦しみ続けた。その一方で、自分がクリスチャン以外であり得ない事も十二分以上に自覚していた。

遠藤氏の『沈黙』で語られる神。
遠藤氏本人がカトリック信徒でありながら、彼の描いた神はカトリック神学の神からは逸脱している。遠藤氏は全て知っていながら敢えてこれを書いた。しかも主人公はポルトガルから単身、禁教令の敷かれた日本に乗り込んでくる宣教師だ。彼がヒエラルキーを離れながら、「キリスト者」であり続けること、人間であり続けること。ヒエラルキーを離れてなお「司祭」であり続けること。主人公のロドリゴが言い放った通り、ヒエラルキーの中にいること自体が守られた社会にいる人々に理解を求めることは難しいに違いない。

踏み絵に足をかけようとするロドリゴにキリストが語りかける。
「踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。(略)私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから」(p.240)

ロドリゴは、殉教する日本の百姓たちを神が救わないことに苛立つ。
「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」

この声が聞こえるのは、共産圏で息を潜めていたキリスト教徒たちなのか。フランス革命の中でギロチンにかけられるのを待った聖職者たちなのか。神が共に苦しんでいた、という発想が、欧米でマジョリティとして何の危険にもさらされず、迫害も差別も受けることのない人々には受け入れられるのか。

中東に滞在する欧米のクリスチャンならわかるのか。いや、彼らの多くは(もちろん例外はあるだろう)なぜ自分たちがキリスト教徒ゆえに攻撃を受けるのか、その意味すらわかっていないような気もする。少なくとも最初からマイノリティとしてのキリスト教徒とは発想が異なるに違いない。中東の国々で砂漠の民族として生まれながらクリスチャンであるという人々との、同じ土地の上でのこの乖離。キリストが生まれたのはパレスチナだったという皮肉。

日本人のカトリック信者が、遠藤氏が描いた神ならば信じることができると受け入れて来たという事実。それを日本に派遣された宣教師たちも良しとしてきたという意味における、バチカンの新たなる方針としてのアジア・ミッション。

そして、意外な程に日本の習慣を受け入れている、日本のカトリック教会というアプローチはありか。

聖母崇拝の深さは、儒教の男系社会化のもう一つの顔であるとも言われている。それはイタリアやイタリア系アメリカ人社会にも同じ現象が社会史・社会学的に証明されている。これに学術的に説明をつけることが可能かどうか。たとえば神道における女神信仰は、いわゆるケルトやローマの土着信仰がカトリシズムを受け入れた土壌と並列に語られうるのか。

突然そういう話がふっても3週間でできることは余りにも少な過ぎる。
もう少し頭を整理することにしよう。

とりあえず持っている和書から処理。
英語版は後ほど再整理。
To do listとして--

『教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告 アジアにおける教会:Ecclesia in Asia』(2000年 カトリック中央協議会)
太田淑子編『日本、キリスト教との邂逅:二つの時代に見る受容と葛藤』(2004年 お離縁す宗教研究所)
門脇佳吉『瞑想のすすめ:東洋と西洋の総合』(1989年 創元社)
ケビン・ハンロン著・斎田靖子訳『外国人司祭が観た日本のカトリック信徒』(2001年エンデルレ書店)
山折哲雄『日本人の宗教感覚:歴史と現代に探る日本宗教の多元的な特質』(1997年 NHKライブラリー)
遠藤周作『イエスの生涯』(1982年 新潮社)
遠藤周作『沈黙』(1981年 新潮社)
遠藤周作『深い河』(1996年 講談社)
永井隆『長崎の鐘』(1995年 サンパウロ)
永井隆『この子を残して』(1995年 サンパウロ)

とても足りるとは思えません…。
てかこの授業、歴史ですらないし(笑)。
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by lapin_histoire | 2005-03-09 09:52 | 歴史のほとりに佇む
2005年 03月 02日

はじめまして

このページの「はじめまして」を書くのはなんと難しいのだろうと一瞬思ったのだが、余り難しく書くのはやはりやめようと決めた。ここで構えてしまったら、この先書いていく本へのリアクションが自由気ままにならなくなってしまうような気がするからだ。自分の歴史や歴史学に対する思いは、この先徐々に、Monologueにあたる「歴史のほとりに佇む」の項目に書いていくことができれば、それで良いようにも思う。

まずは始めることだ。

他に幾つかのWeblogを目的別に始めてみて、非常に良い効果が自分に戻ってきているように思う。

何よりも書くこと。書き残すこと。

自分の思いや考えを綴り、残すのに、これ程便利な場所はないと気づいた。自分のHDはいつかクラッシュするかも知れない。大学のPublic Foldersとして自分の書類を残すこともできるが、重かったり、言語の問題があったりで、ままならない部分も未だ多い。

「脊髄反射的に」記事を書き、リアクションのコメントを残すというのは、他のWeblogでお付き合いのある方々が使う言葉なのだが、そこから学んだWeblogの特性でもある。

いずれ、出版などにあたっては、深く文章を練った書評を書くことも必要なのだろうが、ここではそんなことを気にせずにやろうと思う。いつか深く考えるためにも、あの時、あんな反応をした、と、自分のために記録を残すことは悪くないと思う。

だからここは、そんな自分の読書録とか備忘録のようなものになるのだと思う。脊髄反射で書くのだから、書き直したいと思う時も必ずや来ると思う。そんな時には、誰への責任も感じずに書き直させて頂きたい。まずは、自分のために書き残したいページだから。

一方、書き「続ける」ことへの意味を考えるなら。

同じ本を読んだ方からも、まだ読んでいない方からも、もし何らか私が書いたことに興味をもたれたら、コメントを頂ければきっと嬉しいと思う。

本というのは、誰もが同じように読むものでも、ましてや読むべきものでも、決してないからだ。私はこのように読んだ。あなたはどの部分に惹かれましたか。私が書いたもので足りなかった情報はなんですか。私が書いたことからどのように興味をもたれましたか。

そんなことに答えて頂けるコメントがあれば、それは嬉しく新鮮な驚きになり、自分の読む力と書く力をもっともっと高め、深めてくれるのではないか--そんなことも期待する。何より、誰かと読書についての共通体験を(たとえまだ同じ本を読んでいらっしゃらなかったとしても)分かち合うということは、ある意味、その方と人生のある部分を分かち合うような、何にも代え難いかけがえのない経験になるようにも思うのだ。

今、このページを開いてすぐの段階で、どなたかにこのページについてお知らせしようという思いはまだない。いつか少しこのページに書き慣れ、ページの中に情報が若干でも増え、もっとコミュニケーションをとりたいと思う環境が整ったら、そんな日が来るのかも知れない。

今はともかく、始めることが何より大切なのだと思う。

そんなわけで。
あなたの存在を意識することも希薄なまま、このページを始動します。
いつかこの挨拶を読んでくださった方へ。
私ははじめ、こんなところにいました。
ここからどこに向かっていくかも、見守って頂くようになれば、こんなに嬉しいことはないでしょう。

訪ねてくださったこと、本当に感謝しています。
ありがとう。
そして、どうぞよろしくお願いします。
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by lapin_histoire | 2005-03-02 07:22 | はじめまして