歴史するうさぎ

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2005年 04月 09日

日本人の宗教アレルギーの原因

またローマ教皇帰天の話から始まる。
アメリカ東海岸では午前4時からバチカンでのヨハネ・パウロ2世の葬儀の様子がライブで放映された。「4人の女王、5人の国王、14人の他宗教の最高指導者」が集まり、西側世界で史上最大の葬儀となったと報じられている(NBCとWashington Postによる)。日本からは補佐官レベルのみ参列で、韓国も含めた西側各国の派遣団と比べると、見劣りすること極まりない。外交チャンスでもあるこういう機会に、どうしてこんなことしかできないのだろうかと疑問に思わざるを得ない(が、もちろんその理由はわからないはずはない)。

ここ数日、大学に行く度に聞かれることがある。
「日本では教皇のニュースは十分に流れているのか」

その度に、他の国際ニュース並みの扱いではあるけれど、恐らくはこの欧米での報道の状況の意味がわからないままに、集められた情報を報道しているのに過ぎないように見える、と答えている。

このような質問を私にしてくるのは、カトリック関係者というよりも、寧ろ日本研究者の方であったりする。そして彼らの反応もまた一様に「やっぱりね」という雰囲気なのである。

どうして日本人はこうも宗教に関心がないのか。
関心がないというのも非常に不思議な話なのである。なぜなら、哲学が生きるための助言を与えるのに対し、宗教は死ぬことを前提とした生への助言を与えるものだからである。真面目によく生きようと思う人々が、哲学と思わずとも哲学に触れ、自分なりの哲学的回答を導いていくのと同じように、いつか訪れるべき死を前提として「よく死ぬこと」と「よく生きること」を両輪として考えていけば、当然といえるほど自然に宗教的な解決を求めるというのが、世界中の一般的な考え方なはずと思われる。

日本人だって、かつてはそうだった。恐らくは第二次大戦までは、と言っていいようにも思う。神道と仏教が調和的に日本で育った背景には、神道が死後の世界をとりたてて語らないままに、自然と人間の共生の中で、いかに日本と言う環境の中でよく生きるかという発想の基盤になり儒教などと結びやすかったのに対し、仏教の方は、これまたことさらに死後の世界を強調し、生前の徳のすべてが死後の自分のためにと考えられているという、この両極端さがあるためではないかと思っている。これは片方の存在だけでは、一般民衆の間には生き残りづらかったのではないかとも思うこともある。キリスト教的な考えを振り返れば、一つでよく生きることとよく死ぬことの両面をカバーしているということだろう。絶対神として唯一の神を奉じているが、両方がカバーできるのだから、それで矛盾が起こらないのではないか。日本的神道では死後がカバーできないのだから、この発想の中では唯一神では不安でしようがないということになるのだろう。

日本人だって死者や葬儀を大切にするし、死について大いに語られている部分もある。但し、キリスト教圏の考え方から見れば、基盤のない極めてロマンティックな死生観ととらえられてしまう部分は否めない。星になるとか、空にいるとか、風や花に姿を変えるとか、前世があって、それが動物だったとか。それは死後への期待を秘めながら、何の理論的説明も与えられていないからの発想なのだろう。恐らく星でも風でも花でも、死んでなお、生きる人々に勇気を与え続ける存在であるという表現は、たとえばカトリックで言う、死者と生きる者は互いのために祈り合っているというのと、ほとんど同じ発想と言っていいように思う。これに哲学的なバックボーンが与えられて神学理論になっているかどうかの違いだけなのだろうと思う。お互いにその理論的裏付けがわからなければ、やはりどちらもロマンティシズムに満ちて見えるのかも知れないが。しかし少なくともその意味では、日本人が宗教的でない、などとはこれっぽっちも私には思えないのである。死を語る事が日本では他国よりも更にタブー視されるとするならば、その一因に、この宗教的に理論的な説明が与えられていないということがあげられるように思うこともある。いや、アニミズム(精霊信仰=神道などはこの代表的なものと考えられている)とは、そういうものなのかも知れないが。

それにしても、なぜ日本人は宗教に関心がなかったり、宗教が「嫌い」だったりするのか。
生の末に必ずや来る死を一度も考えない人はいない。
考えれば宗教に到達するのが自然である。
ここまでを仮定としてみよう。

私から見ると、日本人はそのことを考えているにも関わらず、わざわざ「考える必要がない」と自分を説得しているように思えてしまう。それもかなり知的に文学的にかつ巧妙に。その理論は知的であればあるほど、説得力があったり美しかったりもする。ともかく、この仮定あるいは前提をもとに回答を得るならば、やはり一言「アレルギー」なのだと言うより他にはない。それもある特殊な環境下の考え方が巧妙に散布され、恣意的に広められた「アレルギー」。

これは戦後の教育やメディアを使った大々的に仕組まれた政府によるコントロールだと言っても良いような気がするが、ともかく先に一つのステートメントを置くことにする。

日本人は政治的に宗教から引き離されている。
その理由はただひとつ、「国 家 神 道」再興を天皇制に傷をつけないままに阻むためである。

日本にいる時は、こんなことは考えたこともなかった。大学で史学科に在籍したくせに、近代日本史をきちんと勉強する機会に恵まれなかったこともあるのかも知れないが、日本で教えられている日本史は、世界のどこの国で教えられている日本史よりも、真実にアクセスしづらい仕組みになっていることだけは確かだと、アメリカで日本史を勉強した時に確信した。あらゆることについて、年代と事象と事件の名称だけは語られているのに、それらの事実が横にはほとんど繋げられず、論理的に結びつけられていない。第二次大戦に繋がる近代になればなるほどそれは激しくなり、また、近代天皇制を支えた神道的要素が強まる古代史教育にもまた同じ現象があらわれている。

ごくごく簡単な一例を引いてみよう。
日本書紀の「イザナギ・イザナミ」の神話について、我々の世代のどれだけの日本人が正確にそのストーリーと、そのストーリーが果たした役割を答えられるだろうか。

戦前に小学校・中学校に通った世代にとっては、これは常識なのである。が、私もアメリカで日本史の授業をとるまでは、恥ずかしながらわかっていたのはストーリーと、役割の半分だけだった。留学している歴史学以外が専攻の日本人の大学院生に尋ねてみたが、8人尋ねたうち、ストーリーを知っている人が2人(それもかなり曖昧に)、それが近現代日本史に与えた役割については誰も答えられなかった。これが日本で教えられている国文学と日本史教育の現状を如実に物語っているような気がする。

一方、アメリカで日本史を習うと、大学の低学年でもここは一番にきっちり教え込まれる部分である。

神話の世界で初めて夫婦となるイザナギ神とイザナミ女神の物語。
体に欠損と余剰をもつ二人の神が一体となることで一つの完成を見て、国生みを可能とする発想。最初の結婚の試みは、女であるイザナミが先に声をかけたことにより、奇形児の出産により失敗する話。そして2回目にはイザナギから声をかけたことにより完成した結婚が、淡路島から始まる8つの島と35の自然神を生み出す話。二人が湖にその聖剣を浸し、まずは自分たちを神聖なものとし、そして生まれた土地にその剣で水を放ち、「神聖な土地(国家)」とした話。その後に、イザナミが自ら産み落とした神によって黄泉の国へ渡り、迎えに行ったイザナギとのオルフェウス神話のようなストーリーの後に設定される、人間の死の概念。

多くの細かいストーリーが含まれる夫婦神の神話だが、日本ではなぜか二人が聖剣を使って、神話神である自分たちと、日本の土地を「神聖なものとした」という部分が、かなり抜け落ちて紹介されているらしいことに、留学してから気がついた。アメリカで日本史を勉強するならば、日本書紀で最も重視されるのは、この部分である。なぜなら、この章こそが、明治天皇と大日本帝国を他国の何者とも異なる神聖なものと定義する大前提となっていたからである。つまり国教化した神道のドグマの基盤である。

現代社会を生きる私たちには色々な豊かな想像を与えてくれる素晴らしい文学であるにもかかわらず、これは不幸なことだと言わざるを得ない。つまり、この章こそが、当時の日本を狂わせた国家宗教がその発想の正当化のための基盤に置いたものということになり、日本の帝国主義化の原因として最大の悪者扱いにされ、それゆえに、現代日本を生きる私たちへの伝承が意識的に遮断されているのである。

もちろん、文学としてという以上に、第二次大戦に向かう日本の軍国主義化への流れへの理解もまた、同時に遮断されているというところが一番重要な問題なのである。

これは自国政府による自国の歴史理解への妨害である。

なぜこんなことを政府がコントロールしなければいけないのか。
その最大の理由は天皇制の護持と、戦前に国教化した部分の神道の完全否定を同時に果たすためである。

私はクリスチャンだが、各国の状況を受け入れることを現在では前面に押し出しているカトリックのメンバーでもある訳で、天皇制に対しては何の反意も持っていない。寧ろ、日本の外交政策に哲学的なバックボーンを感じられないでいる私は個人的に、天皇家による皇室外交に期待を寄せている部分も大きい。なので、私自身が天皇制に何の反対もしていない部分については、くれぐれも誤解しないで頂きたいと思う。後に述べるが、日本にいるクリスチャンの中でもプロテスタントの幾つかのグループは天皇制存続に強硬な反対姿勢を示している。それは以下に述べようとしていることの中に原因があり、それはそれで理解できないことではないのだ。

日本が政府として最大に排除したい宗教、あるいはもう二度と関わって欲しくない宗教は、現代カルトでも外国宗教でもなく、実は日本を戦争に駆り立て、帝国陸軍に利用された部分の神道なのである。無論、現在は神社神道というのが主流で、そちらには何の問題もないし、国教化したものとは無縁の教派神道や民衆神道と呼ばれる部分も問題はない。問題なのはただ一点、国教化した部分である。これは本当に厄介なグループである。なぜなら、政府が守りたい天皇制を我こそが守るもの、という主張で戦うので、彼らを真っ向から否定すると、本人たちから「では天皇を否定するのか」と言いがかりをつけられかねないという危険が常につきまとう訳である。

だからこそ、宗派や教派を特定することなく、宗教そのものを排除するかのような流れを作らざるを得なかったのだろう。これはある程度海外で日本史の理解を深めた大学高学年や大学院生クラスにとっては、常識レベルの認識内容である。先にあるクリスチャンのグループが、天皇制そのものに反対していると書いた。これは、この政府の苦痛を反対側から消し去るための手段ということになる。つまり、天皇制さえなければ、政府はかつて国教化した神道を奉じるグループにこれ以上苦しめられる必要がない、という判断なのだ。彼らにとってもまた、戦後日本の苦しみに、何らかの解決をつけたいという善意の議論の末に出して来た要求なのだろう。

歴史教育というのは、どんな国においても国家の存立やイデオロギーに関わるもので、それから逃れることはおよそ不可能なのだから、その前提を受け入れ、歴史教育のその性格を十分に理解した上で、各国が各国なりに教えていけば良いのだろうと私は思う。だから、日本と韓国と中国の第二次大戦史観が違うこと自体には問題がない。無論、そのためには政府と教育を管理する省庁が、最善の善意と努力を尽くして、世界における自国の役割を理解し、そのための国際関係を構築する努力をしていることが前提である。その前提に立った上で、問題があるとすれば、それは各国のイデオロギーが反映されるのが歴史教育であり、他の国にいけば違う視点ももちろんあるのだ、ということを教えない怠慢にあるのだと思う。あるいは教師の側の不理解なのか。

歴史は悪者ではない。自国に誇りを持つ事も悪いはずがない。宗教も悪者ではない。

私は右やら左やらという表現は、余りにも視野が狭く思えて好きにはなれないのだが、ごく一般的かつ社会的な概念を用いて言うならば、日本は右も左も中庸も全ての人々が政府のこの「国 家 神 道」アレルギーにコントロールされているのだという結論に至らざるを得ない。

理解をあえて遮断させようとする歴史教育、そして、国民にアレルギー感覚を植え付け遠ざけようとする宗教。これは国家による洗脳だ。非常に不健康な状況に陥っているとしか言い様がない。政教分離と言えば聞こえはいいだろうが、要は例の神道が政府にかかわっていると二度と言われたくないということなのではないか。信仰としての神社神道との相違をはっきりと言うことができれば良いのだろうけれども、国教化した宗教から完全に逃げの姿勢でいるために、そして現在も天皇を奉じながらその宗教を掲げて政府を圧迫するグループに力が残る限り、政府としては敵を特定することなく、宗教全体を緩やかに遠ざけるしかないというのが今の日本の状況なのだろうと思う。

これに国民が巻き込まれているという状況は一体どうなのか。
最初の話に戻るが純粋な宗教というのは、極めて個人的に自らの死を思い、生の時間にそれを反映させていく指針となるものである。その個人的な思索の機会を、このような政治的な理由で徹底的に奪われている日本人の人権の問題とは一体どうなっているのだろうということを考えざるを得なくなってしまう。宗教を何らか持つ事は、日本以外のあらゆる国ではごく当たり前のことである。それは人間として生き、思索する権利でさえある。精神の問題が物質の問題より低いなどと平然と言ってのけるのは、かつての共産主義国家くらいのもので、中国でさえ今は一定の条件下で(極めて遺憾なレベルではあるけれども)宗教を認めるところまで来ている。

宗教を失えば、人間は精神をおざなりにするだろう。倫理観や道徳観がそれを補うという人が多いだろうと思う。それはそうなのだが、ではその倫理観と道徳観を支える理論はどこにあるのか。人間の良心の声か。それはある個人的な範囲までは機能するだろうけれど、それを超える複雑な倫理的問題を解決しようとするとき、指針はどこに置けるのだろうか。無神論哲学は一つの選択肢であるが、宗教全般と無神論哲学を全て並べた中からの選択でないならば、論拠自体が空洞化する恐れがある。そして、それらの思考をおざなりにした上で、ひたすらに物質主義化した挙げ句に、自分たちの生きる基盤が経済と物質以外に思いつかなくなり、思考が破綻する時がくる。その弊害に既に日本は侵され始めているのではないだろうか。

国家は確かにこのようなコントロールをしている。それでも政治体制的に見れば、日本ではまだ信教の自由の機会はあるのだ。最近の日本では、欧米の個人主義の表層の部分だけを取り入れてはいるが、本来その底には個人と神との繋がりという発想もある(これはどちらかというとよりプロテスタント的かも知れない)。善悪に対しても徹底的な指針がある。一つの可能性としてキリスト教というのも、現代の日本社会には本当は受け入れやすい発想なのではないかとも思う。少なくとも、西側のほとんどの社会において機能している訳なのだから、それが日本人にとって合うのかどうか、もう少し見てみようという姿勢があってもいいのではないかと思わずにはいられない。

いや、自分がキリスト教徒だから他の日本人もそうなるといい、なんていうことを言おうというつもりは微塵もない。けれども、ローマ教皇帰天と葬儀ミサの報道の様子と、その様子を話す日本の人たちを見ていると、「なぜ中身を見て話そうとしないのか」と問いかけたくなる気持ちを抑えきれないのである。周辺の問題だけではなかなか真実を語るのは難しいのだと思う。そういう興味から始まることは大切だけれども、余りにも中心について情報交換をできる機会が少ないということなのだろうか。そして、なぜあれだけの外交機会に日本は閣僚レベルが出席できないかの問題もある。それはここまで書いて来た事情にもかかわる、政府の及び腰と怠慢、あるいはその結果としての無理解と言わざるを得ないのだが(真実が怠慢までであることを切に願う)。

こんなことを論じて来たが、日本語でこれを書いたからには読んでくださるほとんどの方が無宗教に近いとおっしゃられることと思う。私はこの文章を特段の注意を払わず、言いたいに任せて書いてしまったとも思っている。だから、多くの方にとっては恐らく、ご自分の無宗教が政府の洗脳の結果と読み取れ、そのことに苛立や不快感を感じられることもあるのではないかと思う。

が、申し訳ないのですが、それがこの文章の真意です。日本研究を行うほとんどの欧米人は、真面目に日本を理解しようとすればするほど、この結論に行き着いています。知らないのは日本人だけなのです。受け入れて頂けるかどうかは全く別の問題として、その視点を紹介することが、この文章の目的だったことをご理解頂ければ幸いです。
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by lapin_histoire | 2005-04-09 00:06 | 歴史のほとりに佇む


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